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旧記事:大麻非犯罪化のために何をすべきか

旧記事

カンナビスト@関西のNao. Y. です、大麻問題に関心を持ち、非犯罪化運動を継続されている方々、お疲れ様です。

 関西の活動は地味ながら、なんとか毎月の会合(会場写真←)と不定期のイベント・アクションを継続して行っています。昨年度から、私の職環境が少し変わったのと、これに伴い日常の雑務が増えてしまったことがあり、HP更新が滞っていたのですが、本年は至らずながら、なるべく月に2~4回は記事(雑文かもしれません)を書きたいなと思っています。

 本年最初の雑文として、現在の日本において、大麻非犯罪化のために何をしたらいいのか、ということを考えてみたいと思います。大麻問題に詳しい方には、あまり目新しい話はないと思いますが、大麻問題に関心があるけれども、詳しいことはまだ知らない、という方に読んでもらいたいものとして書きます。

 社会運動というのは、往々にしてすぐに目に見えるような、派手な成果の出るものではありませんから、長年運動を継続していて、これで何か変わっているのだろうか、即効性のある方策が何かないのだろうかということも、つい考えてしまいます。

 実際のところ、私たちのような、権力の中枢にいるわけでもなく、お金もない個人にとって、今すぐ大きな変化を起こせる見込みはほとんどありません。もしあなたが、大手メディアの会長、政府与党の幹部、行政官僚の事務局長級、医学界、とくに薬学の学会長であるなら、話は別です。しかし私たちはそのいずれでもなく、そしてそのような個人にとって出来ることは、現在の状況にあってほとんど何もないようにみえてしまいます。

 それにもかかわらず、大麻問題を変革しようとするとき、私たちには何ができるのでしょうか。

 まずは日本の状況について整理してみましょう。

 大麻問題は「立法」の問題であり、したがってこれは国会で「大麻取締法」の改正がなされる旨の議決さえなされれば、あるいはハワイなどのように、「大麻取締法」そのものは継続されるけれども、付帯決議として「警察は積極的な取り締まりや起訴を行わない」旨の決議がなされれば、明日にでも大麻事犯による逮捕者はいなくなります。それでは、要するに政治家が動けばいいだけの話であって、私たちは座して待つしかないのでしょうか。

 もちろん、心配するまでもなく、今の状況で政治家は、少なくとも国政に携わる政治家が大麻非犯罪化を大きな優先順位として動く可能性は微塵もありません。これは日本では特にそうだということもありますが、海外でも事情はそれほど変わらず、例えば英国でも90年代に大手メディアによる、大麻非犯罪化キャンペーンが起こるまで、議員はほとんど動きませんでした。(Tony Banksなど、ごくわずかな例はあります)

 当たり前の話ですが、大多数の議員は、「既に世論の後押しを受けた問題」を自らの主要な課題としていますし、また実利的な話として、議員であり続けるためには、世論の獲得が必要である以上、国政の舞台で「大麻問題」が正面から議論されるようになるためには、「大麻問題」が与党的な問題として、言い換えれば、世間の大多数が、「大麻事犯で懲役刑は刑罰の過剰である」という意見をもつまでは、決して国会でこの問題が議論されることはありません。私たちはこれまで、幾人かの政治家に問題を訴えてきましたが、積極的に大麻問題を取り上げようとする政治家は、ほぼ皆無でした。

 これは間接民主主義のパラドックスのひとつであり、民主主義のアキレス腱なのですが、そもそも議会で議論される問題というのは、すでに「多数者によって是認」された問題でしかありえないのです。まれに、社会運動や一部メディアの批判的圧力によって、国政が動いているように見える出来事も起こりますが、これは実際のところ、「問題があること」があまり知られていなかっただけで、その問題が周知されさえすれば、ただちに有権者多数の支持を得られる問題、すでに「多数者によって是認」されている問題であったにすぎません。(例えば中古家電のリサイクルを規制するPSE法が撤回されたように)

 したがって、現在、有権者多数によって積極的な価値を与えられていない問題の場合 ―しかも大麻問題の場合は、積極的な価値どころか、「問題について議論すること」も否定的に捉えられています― これを国政の舞台にまで引き上げ、実際に法制度を変えていくことは、離れ業のひとつなのです。

 そうだとすれば、間接民主政治によってマイノリティ的問題を変革することはできないということになってしまいますが。もちろん、決してそうではありません。そのために、全ての民主主義は「言論や集会の自由」を担保しており、少数者の意見を多数者に納得させる機会は、いつでも与えられている・・・ということになっています。

 通常、そうした少数派の意見をパブリックな場に提出するのは、マス・メディアの役割です。イギリスにおいて、大麻非犯罪化運動が盛り上がったのは90年代末のことでしたが、もっとも大きなきっかけはThe GuardianやIndependentといった、大新聞(とくにタブロイドではなく、高級紙とされているもの)によるメディア・キャンペーンでした。(欧米においてタブロイド紙(大衆紙)は俗で保守的な意見を代弁しており、大麻問題などをスキャンダラスに論じるものだとされており、これに対して高級紙は、より知的な議論を行う場だとされています。)

 ところが、日本の場合、民主主義のパラドックス問題を切り口に考えると、二つの大きな困難があります。

 まず第一に、55年体制以後、記者クラブ制度や大手新聞社内部における「自主規制」の風潮が色濃くなり、英国などにおけるような、政府から独立した役割を、大手メディアは担えなくなったといわれますし、私もそう思います。その結果、ソースの怪しい、非論理的な議論が中心であるはずのタブロイド誌においてしか(例えばプレイボーイなどの週刊誌)、むしろ反与党的な意見は提出できなくなってしまった、という逆転現象が起こってきました。

 もちろん、だからといって日本のタブロイド誌の水準が高い、ということにはなりませんが、あまりにも高級紙に相当するメディアが形骸化してしまったので、相対的に、それなりの部数を出すメディアでは、<タブロイド誌の行政・政府批判能力>(形容矛盾か?)のほうが高くなってしまっています。

 そして、英国でのGuardianやフランスのル・モンドなどに当たるような、比較的ましな議論を行う新聞/雑誌は、小数の部数を出しているような『現代思想』や、あるいはインディーズ系の『スペクテイター』などに限られており、結果として小さなサークルと化してしまいました。(こうした小・中堅メディアで大麻/刑罰政策問題の特集がされる可能性は、それなりにあると思います)

 日本における、第二の困難は、行政からも、スポンサーなどの意向が働きがちなメディアからも距離をとった公共圏を形成しうる社会運動/NPO団体、あるいは知識人層などの、独立セクターが非常に脆弱であるということです。

 英国では政府から独立した薬物問題の諮問機関であるACMDが、EUにおいてはEMCDDAなどがあり、また、非公式のものとして多くの民間財団や、NPO団体が大麻 or ドラッグ政策全般に批判的なコメントを提出してきました。つい先月も、政府によるソフトドラッグ政策を批判するACMDの委員(D. Nutt)がゴードン政権の意向によってクビにされたことが大きな問題となりましたし、また先に述べたように、Guardian紙などもこの問題をTOP級の記事として扱い、政府の対応を非難しました。

 ところ、日本における政府の「外部諮問委員」は、名ばかりの形式的なものか、あるいは元官僚および御用学者で占められており、実効的な政府批判が行われることは全く期待できません。また、社会運動やNPO法人といった市民セクターは、欧米のそれと比較することすらできない状態です。(70年代くらいまでは、とくに労働争議の分野において残っていた力も、80年代以降急速に低下させられてきました、この点において、日本は政府による市民セクターの弱体化戦略が、大いに功を奏した国の代表例といっていいと思います)

 さて、この二つの困難が、冒頭で述べた、私たちに出来ることは「ほとんどないようにみえる」ことの理由です(しかしこれは、「ほとんど」であって、「まったく」ではないことに留意して下さい)。また、これに加えて、欧米と日本の異なる事情を、さらに二つだけあげるとすれば、次の点があります。

 (1)周知のとおり、日本の大麻取締法は戦後の「ポツダム省令」および、米国主導で締結された国際条約の「単一麻薬条約」によって制定された法律です。これは法制史的にみても、「大麻による社会問題」があったために制定された法律ではありません。そして、EU諸国は国際政治的な観点からみて、相対的にみれば独自の政治ブロックを形成しており、日本よりも米国の政治的動向からは距離をとっています。しかしながら、日本は米国の政治的動向からもっとも影響を受けやすい位置にありますから、大麻取締法が究極的に「撤廃」されるのは、国際条約が撤廃された後になると考えていいでしょう。したがって、とくに日本においては、別件の立法や、警察活動の行政的方針として、「大麻摘発」の優先順位を下げることや、罰則規定の変更(懲役ではなく科料とするなど)を行うことが、可能な選択肢となっています。

 ⇒もちろん、だからといって「日本を米国の鎖から自由に!」といった主張に一足飛びにいかないで下さい。そうした心情倫理的、かつナショナリスティックな主張はあってもいいのですが、論理展開としてはそこで止まってしまい、閉鎖的なサークル内でのみ通用するトンデモ説になりがちだと思います。

 (2)プロテスタンティズムの倫理、の欠如が二点目にあります。そもそも米国で大麻取締法が制定されたきっかけとして、第一にメキシコ人を中心とする新規移民、とくに有色人種に対するバッシングがあり(大麻喫煙はこうした移民に特徴的な文化でした)、第二に、アルコールなどの酩酊物質を禁忌とするキリスト教、とくにプロテスタンティズムの倫理があります。とくにこの宗教倫理は、現在のオランダでもイギリスでも、もちろん米国でも、反大麻派の倫理的背景をなしていて、この問題が一筋縄ではいかない理由となっています。

 ⇒たまにいわれる「石油会社の陰謀」説は十分な史料の裏づけを欠いており、私はタブロイド紙的な噂話の一つだと思います(全くナンセンスとも断定できませんが、少なくとも学術的には妥当ではありません)。ドラッグに関する法制史学者、例えばリンドスミス・センターのR. Bonnieなどの主張は、宗教倫理および移民バッシングを背景にした1920年代からはじまる婦人運動や青年運動、およびこれを支持層とする政治家と行政エリートによる立法だということですし、私が調べた範囲でもこの説明には妥当性があります。

 さて、お気づきのように、この最後の点のみが、日本が欧米諸国と比べて、大麻非犯罪化に「有利」な点です。宗教倫理的な反発をする層がほとんどいないということ、これは言い換えると、「信念をもって大麻取締法を支持」する人々は小数であり、大多数の人々は、「無関心的な大麻取締法支持者」である点にあります。したがって、薬学的・疫学的な根拠に照らして、大麻喫煙には、懲役刑に相当するほどの「公共福祉への弊害」がないことが、大手報道機関などから公然と言われさえすれば、意外と今の法律執行形態が決壊するのは早いのではないかと思います。

 ここまでで既に長くなってしまったので、記事を分割します。つづき