明治期の「大麻煙草」広告

自宅で研究するしかないので、ひたすら調べものをしています。

今書いている文章で、近代日本における大麻を考えようとしているのですが、この界隈だと有名な薬としての「印度大麻草」の初出や内容がどうだったのか調べてみました。

今ネット上にあがっている写真や画像は一部不正確であったり、画像不鮮明のものが多いので、各新聞社データベースと契約している大学のリモートアクセス機能で全紙あたってみました。

 

ちまたで良く言われるのは、明治期読売新聞の「知新堂」広告なのですが、これ実際には国内で大分後の事例です。またネット上でみられたのは、2番目の広告ばかりで、初出ではありませんです。読売新聞の初出はこちらです。

 

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読売新聞、1895年(明治28年)11月14日、朝刊5ページ目、「ぜんそくたばこ 印度大麻煙草小林謙三 知新堂薬店」

 

公式データベースの記載

1895.11.14 [広告]ぜんそくに印度大麻煙草/知新堂 小林謙三薬店

1896.01.20 [広告]ぜんそくたばこ 印度大麻煙草/東京市神田区 知新堂 小林謙三薬店

 * 神田にありました知新堂による大麻煙草広告はこの二つだけです。他店舗は見た範囲だと出していないようです。

 

 

しかし実際には、近代日本で最初の大麻煙草広告は、この13年前の朝日新聞です。

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こちら大坂平野町で商いをしていた、大井卜新(ぼくしん)の薬舗が出した「印度大麻煙草」の広告です。こちらは1882年(明治15年)です。これが日本初出です。

1882年11月1日 大阪/朝刊 4頁 広告広告)日本専売人薬舗大井卜新 印度大麻煙草 複方次亜燐酸塩 【大阪】

大井卜新の朝日新聞大阪版広告は、このあと22回、1895年まで継続して出されていますので、新聞史としてみると、知新堂よりはまずこちらに注目すべきですね。

 

印度大麻草の広告はこれらを除いて他の薬舗では広告を出していないようでした。検索ワードを替えるとまた新しくみつかるかもしれませんが。一般的な新聞内容としても「大麻ぜんそく」「印度大麻がどうした」といった内容は皆無なので、明治期の大日本帝国では、大麻煙草はごく一部の薬剤師が扱っていた珍品であって、一般社会で知られていたわけではありません。

 

ちなみに大井卜新はこの時代、藩士あがりの薬剤師をやっていましたが、このあと大阪府会議員から衆議院議員になる地方名士です。薬学のルーツとしては日本に蘭学を広めた軍医の一人ポンペ・フォン・メーデルフォールトの弟子筋にあたります。

 

これに対して、大井よりも後に大麻煙草を扱いだした小林謙三は、適塾のルーツにあります。小清水敏昌が日本薬史学会2018で報告したレポートが参考になり、こちらには「小 林 謙 三 は 適 塾 の 門 下 生 で そ の 後 、 知 新 堂 薬 舗 を 東 京 神 田 に 開 き他 の 売 薬 と 共 に 喘 息 煙 草 を 販 売 。 当 時 の 新 聞 に 広 告 を 出 し て い る 」とされています。

 

こうしてみると、近代日本の大麻煙草はまず明治15年頃から大阪を始発点として、蘭学ルーツの大井卜新が開拓し、その後、東京で適塾ルーツの小林謙三が商いをはじめたといえます。しかし世間一般に広まったわけではありませんでした。

 

明治期で調べていて面白いのは、やはり「神宮大麻」とナショナリズムがらみですね。国家神道が整備されていく帝国日本の過程で、古くからあった千差万別な民俗風習も、国が管理する神道に吸収されていきます。このあたり、きちんと「大麻煙草」の薬史も併せて、そのうち本か論文などでまとめて出します。

この過程で、「うちの家に神宮大麻を押し売りするな!」というローカルな反対運動や、「うちは神道じゃない、別宗教に押し付けるな!」といった声もあがっているのですが、日清日露戦争を経て、こうした声は抑圧されていきます。

日中戦争期になると、「官暦の配布」と「神宮大麻頒布」がセットになって、「国と軍が一元的に管理する、時間、歴史、宗教の全面管理」が達成され全体主義完成って感じになりますね。こうした帝国大麻の歴史は別に復古させなくていいと思いますが、興味深いです。

 

cannabisty@gmail.com