旧記事: どうでもいい首相のニュース

いやほんと、どうでもいいニュースなんですが

 麻生首相が漫画以外の本を買ったことがニュースになっています。

麻生首相は1日午後、東京・八重洲の書店「八重洲ブックセンター」に立ち寄り、本10冊を購入した。

 購入したのは▽危機を超えて――すべてがわかる『世界大不況』講義(伊藤元重著、講談社)▽平和を勝ち取る――アメリカはどのように戦後秩序を築いたか(ジョン・ジェラルド・ラギー著、岩波書店)▽読まない力(養老孟司著、PHP新書)▽ジャーナリズムの可能性(原寿雄著、岩波新書)▽かくもみごとな日本人(林望著、光文社)▽幕末史(半藤一利著、新潮社)▽わが友マキアヴェッリ――フィレンツェ存亡(塩野七生著、新潮社)▽マキアヴェッリ語録(同著、同)▽2009年の日本はこうなる(日下公人著、ワック)▽強い日本への発想――時事の見方を鍛えると未来が見える(日下公人、竹村健一、渡部昇一著、致知出版社)

  首相の買った本がニュースになっているのをそもそも、始めてみました。概ね上の本を一言でいうと「保守親父の愛読本」が勢ぞろい、ってところです。知的傾向はほとんど感じられませんが、まあそれは今更言うことではないでしょう。

 私も塩野七生さんの本は昔好きでしたので、そこは擁護したいのですが、どうやら塩野さんの歴史物語が好きというよりは、単にマキャベリへの俗流関心でタイトル買いしたように見えるわけです。

 その他の本に関しては、ほぼ9割が

 俗流経済学 / 「その時歴史は動いた」的な俗流歴史モノ / 居酒屋談義系の「世の中」モノ

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 この手の本が全て悪いとは言いませんし、読み物としては面白いものもあるのでしょうが、基本的には「俗流解説本」であって、首相としてはあまりにヤバイ(っていう反応をニュースも狙っているのでしょうが、そうとしか言いようがない)、本読んでますよ~っていうパフォーマンスでこのラインナップを選んだとしたら、ますますもってヤバイ。

  さて、この手の俗流本がなぜ「俗流」なのかというと、次の理由によります。

1)議論における複雑な論点を平板化して、「次郎長」 vs 「本当の悪人」構図におとしこむ。

2)「みんなこう思ってるでしょ・・・でも実は!」「そ・・・そうだったのかーーー!!」という単純図式でガンガンかます

 つまり、ステレオタイプと「真実はこうだ!」を繰り返しまくる、時代劇あるいは西部劇の文書化です。そこに論述同士の葛藤は存在しません。こうした時代劇的読み物は、全ての分野に存在しえますが、重要なことはそれが学問領野によって規定された分野分けではなくて、年齢層などの消費者層に応じた分野だということです。

 親父向きなのは「強い日本の○△」や「○○危機はこうして生まれた」といった「社会」と自分のアイデンティティを接合させるようなもの。逆に2000年初頭に若年層で流行ったのは「本当の自分を○△する○×」「癒しの△」といった、内的セカイの探求本。両者は全く別物ですが、基本的な文章の原理は似通っています。

 すなわち、存在に拘束され、事後的に名指しすることでしかありえない「事実」、特に歴史的なそれを、単一の観点に回収することで方法論的な葛藤をすっとばし、そうして取り出された「事実関係」に対応する「解決策」を提示して万事めでたしめでたし、というハッピーエンド。ドストエフスキー読解で有名なM. バフチンの言葉を転用するなら、それは「モノローグ的」思考に支配された、「ポリフォニー」への嫌悪によって成り立っています。

 『サバルタンは語ることができるか』で知られる、G. C. スピヴァクは、複雑な出来事を伝えるために記述を単純化すること、それ自体が「権力的」だと述べました。彼女が述べようとしたことは、二重の権力性批判である。なぜか。

 第一に、時代劇的なコードの単純化がもたらす、描かれる対象に対しての権力(「黒人」とは「女」とは「日本人」とは~なものだ、というラベリング)であり、これは『サバルタン』で書かれた論点でもあります。

 そして第二に、「読者」という作者からは区別されるものに対しての権力。それは、~にも分かりやすく教えてやろう、という、世界観の押し付けであり、聞き手としての他者を透明なものとする教室内の権力がある。

 さて、麻生のもつ「権力」は、主に「部落民」や「朝鮮人」からなる鉱山労働者への暴力によって得られたものでした。そうした文字通りの搾取は、彼の家においては、江戸時代から続けられてきた。

 *麻生の父、麻生多賀吉は「麻生鉱山」にて、「部落民」と「朝鮮人」労働者を実質奴隷労働者としてタコ部屋にいれることで富を築き、その会社の後継である「麻生セメント」の取締役が、麻生首相です。現在の政界における地位は、そうした暴力なくしてはありえないといっていい。ちなみに多賀吉の父も、祖父も、同様の旧来的なピラミッド構造の頂点に位置する富者で、祖父はほとんど「カムイ伝」に出てきそうな「大庄屋」でした。

 おそらく、日本でもかなり稀な暴力の上に築き上げられてきた権勢をもつものが、おそらくその暴力性に最も無関心で、かつ遠いところにいる。結局のところ麻生は自分の好きなマキャベリの逆地平に立っているのです。自ら統治者として「君臨」したわけでもなく、最初から統治者として生まれ、その存立基盤が他者への明確な暴力によって成り立っていることすら自覚しない無知な王様。

 「全ての国民は、その国民にふさわしい君主を得る」との言葉があります。麻生は早晩退場するでしょう、問題は、麻生が退場することではなくて、我々が彼の退場を単に見るのか、それとも退場させるのか、という違いです。