旧記事: 大麻非犯罪化という態度

morleyさんのblogで、先日の記事とmorley掲示板がリンクされています、thx。

 掲示板は見てのとおり、反対派の声が大きいようです。さて、ここ数年、カンナビストの活動に関わってきて、反対論のタイプが概ね限定されていることに気づきました。また、いわゆる反対派の議論を、私は面と向かって言われたことがそれほどなく、その8割以上はNet上での(匿名の)反論です。

 とはいえ、反対論というか、批判が出てくること自体はとても良いことです。少なくとも全ての人が「ダメ絶対」と思っている場では、そもそも批判自体が意味を成さないわけで、反対の議論が出てくるということを、運動的には歓迎すべきです。

 抵抗とは、常に権力の裏返しなのであって、抵抗のないところでの権力、中立的な権力は存在しません。(あるとすれば、それが命令だとすら受け取られない、無条件の力でしょうから)

 しかし、ほとんどの反対論が非常に表面的な批判であることを、私たちはまず恥じるべきです。それは、非犯罪化側の議論が、表層的であることの裏返しであって、本来、人間と国家、犯罪と処罰といったテーマに関わるべき大麻非犯罪化という問題が、非常に矮小化された舞台で議論されていることを、私はまず恥じます。

 私にとって、大麻問題、あるいは大麻非犯罪化運動とは、どのような社会で人間は生きるべきか、国家と社会の関係はいかにあるべきか、といった問題と繋がっています。もちろん、運動の目的は大麻取締法による処罰が(実質的に)撤廃されることであり、諸々の活動は、そのために行われています。ところが、そうした問題に取り組み発言していくということ、それは上記のような、「社会的なもの」に関わる問題であるということをはっきりと明示しておきたいと思います。

 もちろん、それはイデオロギーでもあります。イデオロギーという言葉をどのように理解するかという問題にもなりますが、ドイツ社会学の本流的見解に即していうのであれば、上記のような考えは「イデオロギー」です(あるいは、ユートピアかもしれません)。

 ところが、日本ではイデオロギーという言葉が非常に曖昧かつ、限定的に用いられています。⇒曖昧なのに、狭義の意味合いしかもっていません(´ヘ`;)

 それは、ある特定の集団や、党派に結びついた考え、といった程度の意味合いであって、例えば「共産党イデオロギー」や「天皇制イデオロギー」といった言葉で用いられます。

 もちろん、私がここでいうイデオロギーとはそうした日本的用法ではありません。それはある種の観念や社会像を背景にしており、そうした諸々の表象から切り離すことのできない言語の体系のことです。だから、K. マンハイムは「知識とは全て社会的に拘束されたもの」であり、私たちの考えは、それが生まれた特定の時代や社会的背景から決して切り離しえない以上、必ず「社会的」なものにならざるを得ないのだ、と述べました。

 そしてマンハイムは、そうした観念の体系のうち、歴史的に「現実を超越しているが、実現しなかったもの」のことをイデオロギーと呼び、「現実を超越し、そしてそれが実現したもの」をユートピアと分類します。

 さて、話しがそれましたが、ドイツ社会学によるこうした広義の「イデオロギー」の定義におそらく一番近い日本語(orカタカナ語)の用法は、おそらく「思想」や、もしかすると「スタイル」といった言葉なんじゃないかと思います。そうした意味で、非犯罪化運動は、ある種の、しかし決して単数ではないスタイルと結びついているだろうし(例えば、ヒッピームーブメントや、ラスタ・レゲエ的なものや、環境主義や、あるいは言語化されていない「違和感」と)、そうした意味ではマンハイム的な「イデオロギー」と無縁ではありません。

 同時に、反対派の人々も何らかのイデオロギーとは、決して無縁ではなく、いやむしろ、警察や「ダメ絶対センター」の場合であれば、日本の特殊限定的な用法としての「党派性」とも結びついています。すなわち、55年体制や、官僚主義とです。

 そして断言しますが、カンナビストや、その他の私が知る限りの大麻非犯罪化を求める集団は、特定の党派や利害集団と結びついているわけではありません。これは、党派を巡るありきたりな政治の場ではなく、「社会性」を巡る舞台なのです。

 さて、カンナビストとは関係なく、私個人の「思想」についていうならば、私はまず大雑把な意味でのリベラリストです。リベラリストといっても、経済学的な自由主義のことではなく、J, S. ミルなどのリベラリズムのことであり、そして、それを補完するものとして、数ある理論の中でもM, フーコーの権力論・言語論に強い影響を受けています。(フーコー主義というものは、その思想の内容からして存在しないので、ゆるやかなFoucauldianという言い方になります、フーコー的な考え方に依拠しながらモノを考える人、くらいの意味でしょうか)

 もう少し言えば、フーコー萌えな人です、もちろん、他にも影響を受けた/萌える思想家や文章は多くありますし、社会像や、概念の使い方でいえばN,ルーマンも、J,ランシエールも好きですが、まずはフーコーLoveです。

 フーコーは読み方次第ですが、とくに専門的な知識がなくても、十分に読んで面白い/理解できる文章を書いています。そして彼は、非常に優しい思想家です。決して攻撃的な批評家流の文章ではなく、丁寧に折りたたまれた文体の中に、「権力」に対する違和感が、しかし断固として表明されます。

 横道にそれてしまいましたが、私は、反対派の意見がとても表面的なものであることを、まず恥じます。すなわち、「他国で吸えばいいだけ」「嗜好品として合法化(非犯罪化)するメリットは何?」「もし問題が起こったら誰が責任をとるの?」…etc

 こうした問題は、もちろんナンセンスです。主な答えは先日の「大麻取締法にはノーを、哀しみもたらすだけ」で書きました。

 「合法化するメリット」について、税制の問題や警察費・刑務所費の試算を用いたりすることで、反論することは容易です。99%の反対派はそうした論文を読まずに、「合法化するメリットがない」と言います。そうした意味において、まず無意味な質問です。

 しかし、もっと本質的に無意味なことは、「合法化することのメリット」は、日本における状況下では、全くどうでもいいことだということであり、そんなものなくても良い、ということ、そしてその事を反対派も多くの肯定派も取り違えているということです。

 これが、オランダやイギリスであれば状況は違います。すなわち、販売をどのように許可するか、栽培は認可すべきか、といった政策的問題を論じる際に、経済的な試算や政策論は欠かせません。

 ところが、日本での問題はそうではない。そうではなく、大麻取締法という名前を持った刑罰によって、ある種の人々を投獄することが妥当かどうか、という問題がまず問われなければならないのであって、これは、国家がどのような行為を犯罪と認定し、どのような人々の自由を奪いうるか、という問題なのです。だから私は「合法化のメリット」について問われれば、説得のために色々説明する場合もありますが、合法化のメリットなど、この議論と何の関係がある?という答えを胸の内にもっています。

 ハンセン氏病の人々を隔離しないことに、税制上のメリット、社会的なメリットが必要でしょうか。あるいは、障害者を強制収容しないことに、同性愛者を逮捕しないことに、ある種の政治的なパンフレットを持つものを逮捕しないことに、何のメリットが必要でしょうか。

 そこで問われているものは、ある種の人々の自由を奪うことの根拠であり、決して、逮捕される側にではないのです。この場合、立証責任は断固として逮捕する側にある。すなわち、大麻喫煙者や/ある種のパンフレットを持つことや/同性愛者を逮捕・監禁する側が、誰の法益を守るために、どのような社会を守るために、誰の自由を奪いうるのかを説明する必要があるのです。

 そこに、税制上・政策上のメリットがあろうがなかろうが、ある種の行為が他者の法益を犯さず、公共の利益を著しく損なう(通貨偽造のように)ことがないのであれば、逮捕するに足る根拠など、何一つないということを、まず我々は言わなければならない。

 「国外で吸えばいい」といった言い方も同様です、そうした問題の立て方は、日本という国家における刑罰が、どのようにあるべきかという問題を棚上げしたまま、その責任を「個人」という主体に還元してしまう。問題は、「個人」がどのように行動すべきか、という道徳論ではありません。

 国家と刑罰、そして社会のあり方が疑問に付され、議論されるべきなのに、なぜか問題が「個人」の道徳論(お前の自己責任だろ論)や、メリット論(大麻吸わない人に何か得があるのか論)になってしまっている、それに対しては、問う場所が違うんだよ、と答えるべきです。

 問われるべきは、なぜ「大麻所持者」がこの社会において、「生きるに値しない生」と名指しされ、そして監禁されているのか、それを正当化するメカニズムとは何か、といったことなのであり、それらの問いのすぐ先に、私個人にとってはここまで述べてきた問題があるのだと考えています。(もちろん、別の人がその先にどのような問題を考えるのかは全くの自由*です。)

 *「私たちカンナビストに共通の主張があるとすれば、それは次の一語のみである。すなわち、大麻喫煙者の逮捕は権力の濫用である。残りの主張は各人が好きなように埋めるだろう。なぜなら、カンナビストは存在しても、カンナビス主義はどこにもないからである。」http://www.bvoh.jp/cannabist/?p=132