旧記事:大麻非犯罪化のために何をすべきか つづき

先に、日本における大雑把な状況の俯瞰図を描いてみましたが、では、こうした閉塞状況にあって、私たちは何をなすべき、というよりは、一体何ができるのでしょうか。

 先の状況認識を踏まえたうえで、非犯罪化の道程について整理してみたいと思います。

テーゼ1:法律の改正や、摘発基準の緩和など、非犯罪化の最終的な局面に至るためには、大麻問題が、「多数者」に是認される問題とされなければなりません。

テーゼ2:「多数者」に是認される問題となるためには、「大麻喫煙」それ自体についての価値判断(大麻が素晴らしいか否か)は差し控え、この問題が「刑法」の問題であり、逮捕の是非をめぐる政策的問題であるということ、これをもっとも抽象的にいえば、<国家と自由>の問題であり、より具体的にいえば、ドラッグ政策に関する「ゼロ寛容」型方途の問題を指摘し、大麻問題をEUのように「公衆衛生」「社会福祉」の問題だと位置づけなおすことが必要だということです。

テーゼ3:政治家や、大手メディアが積極的に取り上げる問題として、大麻問題の「状況の定義」を変更させるために、日本において辛うじて取りえる道は次のものです。

 1)現在政権与党が推進するNPOと与党との提携に食い込む。食い込めないまでも、少なくとも「大麻問題」についての知識を、政治家有志に伝える。

 2)その際、主張の正当性を担保してくれる、学術的権威(あまり良い言葉ではありませんが)を確保するために、現役で学会活動を行っている研究者の協力を取り付ける。

 3)大手メディアが大麻問題を「問題化」するためには、すでにその問題が「売れる」そして「妥当性のある」問題であることが、より小さなメディアで立証されていることが必要です。大手メディアは、つねに、より小さなメディアが開拓した分野を剽窃することで「番組」を制作しているのであって、もっとも小さなメディアとして、インディーズ系の論壇誌、Web配信番組、大学新聞、個人blogなどがあり、これを中堅メディアである、一般の論壇誌、地方・ケーブル放送、マイナー週刊誌などに引き上げていかなければなりません。

 ⇒この点に関して、もっとも小さなメディアが、より大きなメディアに対する批評を積極的に行うことは効果的な方途のひとつです。例えばこれ

 4)大麻非犯罪化を支持する集団の場を維持し、主張の論理的妥当性を高めていくことが重要です。その場は、論壇誌などのメディアであっても、社会運動であっても、NPO法人であっても構わず、そしてその主張は複数のものであればあるほど望ましいでしょう。議論は美学や哲学のように、極めて専門的な、それゆえ参加者を予め選定するような論議対象を持つもの以外は、ほとんどの場合、閉鎖的なサークル内で発酵するよりも、パブリックな場での異なる議論の交錯によって進展し、また注目されます。

 5)4で述べたような、議論のオープンなサークルに参加する人々が増えるように、大麻問題を「面白く」あるいは「知的に洗練された」問題として議論・表現できる環境を整え(例えば、これまでフェミニズム運動がそうしてきたように)、そうしたサークルに、一名でも多くの人が参加できるように周知する。

 結局のところ、本当に「ほとんど何もできない」地点から事をはじめようとすると、このように、気の遠くなるような道程を一歩ずつ進んでいくしかないのだと思います。大麻非犯罪化のムーブメントは、あまり知られてはいないけれども、すでに「多数者が考えていること」と合致するような問題ではない以上、来月にでも改正法案が提出されるようなものでは、決してありません。そうした点において、「黒人」公民権運動や、「障害者自立支援法」の改正をめぐる大きな闘いと同じくらい、困難さの度合いは高いと思います。

 戦前のイタリアで反ファシズム運動を戦ったアントニオ・グラムシは、そのようなムーブメントの方策を的確に表現した寓話を述べていて、彼が念頭におくのはロシア革命の状況分析ですが、グラムシによるとイタリアでの政治運動とは、ロシア革命のような「機動戦」ではなく、泥臭い、ジョージ・オーウェルがスペイン内戦で戦ったような「陣地戦」でしかありえないと述べます。

 東方(ロシア)では、国家がすべてであり、市民社会は原初的でゼラチン状であった。西方(ヨーロッパ)では、国家と市民社会の間に適正な関係があり、国家が揺らぐとただちに市民社会の堅固な構造が姿を現した。国家は前方塹壕にすぎず、その背後には堅牢に連なる要塞とトーチカが控えていた(Forgacs, D., 1988, A Gramsci Reader)。

 このように、国家が単なる為政者の箱であるならば、その箱を壊してしまえば事は終わるのだけれども、市民社会と国家が「ゼラチン状」ではなく、「堅固」に結びついている場合、国家・法制度を変えるためには、市民社会それ自体の考えを変えるしかないじゃないか、ということをグラムシは主張しました。これはもちろん、一種のイメージですから、具体的に「市民社会」の思想を変えるための方策は、その時代、地域によって様々であり、そして日本における私の状況認識と、ごく大づかみな方策は、これまで記したとおりです。

 こうしたグラムシの思想を背景におきながら、これまで展開されてきた運動の代表例として「第三世界」の民族運動や、一部フェミニズムの運動がありますが、こうした運動は、グラムシが指摘したような「陣地戦」を戦ってきました。それは、グラムシの用語でいうならば市民社会内部における「ヘゲモニー」(主導権)を握るための、「機動戦」すなわち、急進的な街頭デモや、政治家への直接のアプローチのほかに、そうしたアプローチの成功可能性を高め、支持層を増やすための「文化闘争」でした。

 例えば、黒人公民権運動であれば、「黒人」イメージの転換をもたらすような、女性運動であれば、「人形の家」などの小説や、劇作、あるいは現在であれば映像や音楽を通して、多角的に「陣地戦」は行われてきました。

 先に触れた、英国における大手新聞のキャンペーンが開始されたとき、その記事に記されたサポーターの名前をみれば、大麻問題が、こうした「文化闘争」のひとつであったことは疑いをいれません。例えばごく一部だけをみても 

Tariq Ali, writer and polemicist

Brian Eno, musician, record producer, artist

Patrick French, historian and traveller

 こうした人々の「肩書き」は大学人・知識人、インディーズや中堅出版社の業界人、音楽家、小説家、医師など様々であり、そして、こうしたIndependentによるキャンペーンを可能にした、「ほとんど何もできない」かのようにみえる下からの運動が、それまでにどれほどの尽力を行ってきたのかは言うまでもないことです。

 結局のところ、私たちに与えられた選択肢は「いつの日か、国際条約が撤廃され、そして日本でも雲上人が法制度を改正するまで座してまつ」か、それとも「ほとんど何もできない」かのようにみえる中で、下からの運動を組織し、あるいはblogなど自前のメディアで、周囲の人々に対して、公然と大麻問題を周知し、議論へ引き込んでいくか、そしてそのことによって、大麻問題をめぐる世論の「状況の定義」を変革しようとするか、ということでしかないのです。

 日常、あまり語られないこと、語ってはならないこと、あるいは禁じられているがゆえに、過剰に語られること(フーコーが示したように)の対象とされているものを、正面から公然と語ることは、私たちが思っている以上に、面と向かって言われたほうにとっては大きな印象を残すものです。そうした点において、日本の「大麻非犯罪化運動」は多くの人にとって、印象に残る話題であることは間違いないのではないかと思います。