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旧記事: 大麻非犯罪化運動はリベラルでなければならない

マーチが無事終わったところで、今年から来年にかけての運動方針について考えていきたいと思います。

 まず、私にとっての運動の前提条件を繰り返すと、大麻非犯罪化運動とは、自由と抵抗の運動なのであって、以下のものに抵抗する運動です。

 第一に、不合理な法制度によって、人間が収監されていることに対する反対運動です。ここが運動の出発点であり、これこそが全てです。

 大麻が「有益」なものか「無益」なものかは、ここでは問題ではありません。もし仮に、大麻がタバコのように少しは「有害」で「無益」なものであったとしても、これを理由に懲役刑を科す理由にはなりません。だから私たちは、大麻が「悪い・良い」ものであるかどうかを言う必要など本来ないはずです。問題にすべきなのは、大麻喫煙者に「懲役」を科すに足る理由があるかどうかのみなのであり、大麻が「無益」で、少しは「有害」なのかもしれないといわれたところで、これに反論する必要など実はありません。

 これに反論することは、「相手の土俵」を受け入れることであり、私たちは「大麻が無益だとしてそれが何だ」というべきであろうと思います。(もちろん、個別に大麻農家や医療大麻を求める患者さんのいうことは、全くもっともなところがあります。しかし少なくとも「懲役刑」を科すことに反対するのであれば、私たちはまず、「懲役刑を科すに足る理由がない」ことを主張すべきだということです)。

 初期の障碍者運動を牽引した横塚晃一さんは、「脳性マヒ者が経済活動に参加できないからといって、それが何だ」と反論しています。障害者に対する差別と社会政策の不備が、「障害者はこの社会に貢献していないから」などという理由で、まことしやかに言われていた6-70年代、そうした優性主義と経済的尺度を一蹴にふして、その「計り方そのもの」が下らないと述べたことを、私は思い出さずにはいられません。

 以下は余分なことかもしれませんが、第二に、「大麻」という表象は、ステレオタイプとして認識されており、例えばこれまで「ハンセン病」や「同性愛」などがステレオタイプによって不当に攻撃されてきたように、「大麻喫煙者」も十分な認識の上ではなく、あくまで曖昧な「イメージ」に基づいて攻撃されています。だから大麻非犯罪化運動は、こうしたステレオタイプに抗する運動でもあります。

 この部分は意外と、非犯罪化運動をしている人の間でも共有されていません。しばしば、大麻問題について熱心に考えている人が、その一方で「大衆はバカだから大麻の問題でも騙されている」「アメリカが全て悪い」といったような、ステレオタイプに基づいた声を発するのを耳にします。とても寂しくなります。

 私たちの世界は複雑であり、私たちは全ての問題に精通できるわけではありません。たまたま、ある人は「大麻問題」について詳しくなったけれども、その他の問題については、大体の場合無知なのであって、それは、大麻問題について詳しくないけれども、自分の問題には詳しいほかの隣人とて同じはずです。

 私たちは、ほとんど全ての人が「大衆」として生きざるを得ない社会に暮らしているのであって、私たちもまた「大衆」なのです。そうだとすれば、非犯罪化運動にかかわるものが考えるべきなのは大麻問題以外に関する、自らの無知なのであり、同様に国や多数者や法律によって人生を生き難くされている人々に対する、連帯のメッセージであるべきです。

 私たちは内に篭って、内部の人間にだけ分かるスラングを発達させるべきではなく、そうすることによって、自ら慰めを求めてはいけないと思います。それはかつて左であれば連合赤軍や、右であれば新右翼の一部が行って、そして失敗してきた行き止まりの道なのであって、その方向には論理的な突破口ではなく心情的な内向きのサークル化があるだけです。

 だから大麻非犯罪化運動は、ステレオタイプや、権威や、多数者の曖昧な心情に抗して声をあげようとする運動なのだと思います。T.アドルノは、第三帝国を批判して「権威主義的パーソナリティ」からの離脱を求めましたが、私たちもこれや、「自由からの逃走」に抵抗すべきなのです。

 権威主義的パーソナリティの特徴として、アドルノは以下の点をあげます。(1)権威に対する従属、(2)迷信やステレオタイプによる認識、(3)反知性主義と反科学主義、(4)人間存在に対する不信の念(戦争はいつでも止むを得ないことだ、など)、(5)性的な逸脱に対する執着と攻撃。

 大麻非犯罪化運動が反権威主義の側面をもつとすれば、私たちはまず自らが理知的になろうと努力すべきであり、「○○が全ての原因」といったような、ステレオタイプに逃げ込むべきではないのです。

 ステレオタイプとはリップマンがいったとおり、「定義から認識する」ことであり「認識から定義しようとする」ことではありません。しかし、私たちは他の多くの人々と同じく、大麻問題以外のトピックに対しては「定義から認識」しているのであり、それは例えば障碍者や同性愛者や、入管センターに今も収容されている難民に対して向けられているのではないでしょうか。

 そして、私たちが「大麻問題」についていうとき、私たちがそうした人々の問題を横に放り出したまま、「大衆はバカ」だと言ってしまうのであれば、誰が私たちの言うことに耳を貸してくれるというのでしょうか。

 だから、まず私は、今年から来年にかけて、なるべく他の社会問題について声をあげている人々と共に考え、一致できる点をみつけ、問題を共有したいと思っています。マーチにきてくれたあるギター弾きが、「反戦や反貧困の運動の中に、カンナビストの旗があったら面白い」といってくれたように、私はこの運動を広げるために、まず自らの無知を知ることと、他の困難を抱えた人々に対する訴えかけを行っていく必要があるように思います。