旧記事: 公共空間の囲い込みに対する反対

先日から渋谷区宮下公園が封鎖され、路上生活者が排除された問題を受けて、ささやかで個人的な反対声明を提起します。

*公共空間の囲い込みに対する反対声明*

宮下公園は渋谷駅に隣接する公共の空間ですが、実はマリファナ・マーチ・デモの終着点であり、ここ数年ほどマーチのデモ行進は青山公園からはじまり、宮下公園で解散していました。

近年、渋谷区が宮下公園の命名権をナイキに販売し、ナイキは都市公園法の範疇を越え出るほどの公園大改造(有料スケートボーディング場の建設など)を行い、自社の宣伝と営業に利用することになりました。

この計画が実現すれば、事実上、公共空間としての「公園」はなくなり、ナイキ社による私的空間としての商業施設へと変貌することとなります。当然、マーチのデモルートも変更を余儀なくされ、数少ない社会運動の方法がまたひとつ減ることとなります。

いうまでもなく、ナイキと渋谷区行政による公園の徴用は、以下に点において大きな倫理的問題があるといえます。

(1)本来公共の場である(みんなのものである)公園を、特定の営業団体に引き渡すことで、公共の場から得られる利益を、現在大きな力をもっているものが独り占めすること。

(2)しかも、その独占は公園の片隅で寝起きしていた都市雑業者を追い出すことで可能になっていること。

(3)有料の空間を造成し、社会運動や草の根のイベントなど、誰もが無料で参加できる集まりを不可能にすること。

以上の点において、私はナイキと渋谷区が行っている施策を、不公正な多数派主義だと捉え、公共性や少数者の基本的な権利を侵害することによって成り立つ「囲い込み」であると断定します。

こうした出来事は、実は私たちが主張している大麻問題と近接する点をもっています。そもそも大麻規制は1930~40年代の米国で行われましたが、これは(1)メキシコ移民(あるいはアフロアメリカン)の文化に対するバッシング、(2)プロテスタンティズムの倫理による道徳の強制、(3)禁酒法後の摘発組織に新たな仕事を与える目的、以上の三点を理由とするものでした。

これはすなわち、本来自由な行為であるはずの飲酒や大麻喫煙を、当該社会において多数派を占める特定の集団が、その集団の定める理念や利害によって規制し、少数者を抑圧することによって可能ならしめられた「多数者の専制」であって、決して民主主義的に定められたものではありませんでした。

非民主主義的かつ少数者へのバッシングを含んだ法律を堅持し続けることに、私たちは反対していますが、本来「モラル・パニック」的な局面をもつ大麻取締法と、宮下公園の囲い込みは近似的な機制をもった多数者による暴力に他なりません。

マジョリタリアンは、ナイキの囲い込みもホームレスの居住も同じように公園の私有化だといって、大企業と行政の囲い込みを正当化するでしょう。しかし、一体どの路上生活者が自ら望んで公園で寝泊まりするというのでしょうか、多くの路上生活者は皆が寝ている深夜から早朝にかけて、誰もやろうとしない仕事をやり、日銭を得て、やむなく公園で寝泊まりしている。

そうした経済と階層の構造をつくりだしているのもまた、マジョリタリアンであり、そうした人々はその一方で「ホームレスが公園を私物化」していると非難します。

大麻喫煙者がわがままで特異な習慣をもっているだけだから、これを迷惑だと思う人もいるから、大麻喫煙者を逮捕すべきだといった声と、こうした路上生活者に対するエゴイスティックな非難は、同じ場で起こっている出来事だと私は考えます。

ナイキ社および渋谷区はただちに公園の囲い込みをやめ、これを公共の手に返すべきです。