旧記事:Cultural Typhoon 2011への出展報告

Cultural Typhoon 2011のブース出展をしてきました。スタッフのみなさん二日間にわたってお疲れ様でした。 Cultural Typhoonには初出展で、あまり準備もせずに飛び入り参加のようなことだったのですが、多くの来場者にカンナビストの主張をまとめたパンフレットなどを手渡すことができ、また数十名の方と直接意見を交わすことができました(印刷していったパンフレット50部と、短いフライヤーのようなレジュメ150部を配り切りました)。

 予想通りに、来場者の半数ほどは学生さんや大学院生、2割が研究者、2割が社会運動家、1割が近隣の方や社会人であったように思います。マリファナ・マーチのTシャツを作ってくれているRLLさんも出展していて、お話することができました。

 出展の感想をかいつまんで記しておきます。

 ○来場者は人文社会学系の学生が多いということもあって、私たちの主張はおおむね好意的に受け取られるか、肯定的でなくとも、感情的な非難を浴びるといったことはありませんでした。やはり、こうしたリベラリストや海外留学経験者、アカデミックな研究者が集まる場であれば、大麻非犯罪化という主張はそれほど「ラディカル」なものではなくて、一つの現実的な選択肢として受容される可能性が高いようです。

 脱原発運動をしている方、数名とも意見を交わしたのですが、脱原発運動はやはり、大麻非犯罪化運動と親和性があって、「情報の公開」「民主的な議論」「ステレオタイプに対する反感」といった諸点においては、共通の認識枠組みがあるように感じました。

 ○また、仕事などの事情でサロンにはあまりこれない仲間も、こうしたイベントがあると集まってくれて、一日目の夜はよさげなホテルのラウンジで懇親会、二日目は飲茶と、仲間の交流もできて、私としてはとっても面白い集まりでした。

 ○その一方で、Cultural Typhoonという場それ自体が、若手研究者のための交流の場となっていることもあって、その場の議論をどのようにして、実際の現場に適用していくのかは、なかなか難しいものがあるなという印象です。この話はちょっとややこしいところがあって、若手研究者の就職難および業績を作れ圧力が高まる中で、現場(あるいはマイノリティと呼ばれる人たちの活動の場)の出来事を、単に議論のための材料や、研究業績稼ぎのためのポイントとしても考えざるをえないという現状があります。(ただし、高学歴ワーキングプアという言葉もあるように、豊かな家庭の出身ではない大学院生やポストドクター自身もまた、就職難にあえぐ一個の若者なのですから、この点を取沙汰して、すでに就職している研究者が「君は自分の立場をどう考えているのかねぇ」なんていうのは論外ですが。)

 私としては、この問題は研究者の立場を堅持したまま「マイノリティ論」をやろうとすると、どうしても解決不能な難問で、研究者や大学生といった立場に一方で立ちながら、その一方で「マイノリティのきもち」を代弁しようとすると、必ずどこかで無理がでてきてしまう問題だと思っています。日本の学生運動が「華青闘告発」に対して日本人の立場からの「ラディカルさ」を競ったことや、同じくアメリカの社会運動、たとえばSDSがブラック・パンサーとの「共闘」をWASPの学生という立場から遂行しようとして、内部分裂のあと空中分解してしまったのは、「当事者」を神聖なものとして、しかし、自分の立場をそれよりも安全な立場に置こうとしてしまったことに起因しているのではないでしょうか。

 この問題に対して、「代理=表象」の問題がどうとか、「可傷性(ヴァルネラビリティー)」がどうとかといった、学会のジャーゴンを使って認識論的、思想的な格闘を試みることもまた、議論としてはとても面白いと思いながらも、不毛なものを感じざるをえないのです。でもそうした議論って、実際にインドでカースト制や女性問題に取り組み続けたスピヴァクや、あるいはサイードだから意味あるものになりえるのであって、日本のインテリがフランス現代思想の面白さにひかれて模倣しても、あまりうまくいっていないと思うのです。

 結局のところ、この問題に対しては(1)ジャーゴンを使っている暇があったら、自分が当事者になって、あるいは直接の支援者として自分で活動しちゃうか、(2)語りえないことには沈黙せざるをえないとして、代弁することをやめるか、(3)研究者の代弁だと開き直って、そのうえで、批判と現場に対する責任倫理をまっとうしようと試みるか、その三種しかないと思います。

 私の場合、大麻非犯罪化運動は、素朴に(1)として、すでに運動の幹事をずっとやっていることで、むしろ学会内の一部から「問題児」扱いされることもあるという点において、業績になるどころか、マイナスになっているのですが、それはそれで自分が納得すればすむ問題ではあります。(ただ、ほかの研究分野に関しては(3)であったりするので、この問題の難しさとは全然無縁でありません)。

 (3)の難しさは、ここでの「批判と現場」への責任倫理をまっとするということは、単に同じような研究者からの批判に応答するということではなくて、自分の研究や言論が、対象とする現場にどういう影響を与えてしまって、もしその影響が悪いものであったと確信できた場合には、すぐさま今までの研究を撤回する準備があるかどうかということにかかってきます。

 私も現在、某市の障碍者団体の調査を市行政の委託として引き受けてやっているのですが、その結果、たとえば団体への助成金が減額されるようなことがあるのではないか、団体相互の協力関係を崩してしまうことになるのではないかということへの、十分な事前の予測を欠かせないという点で、とても難しいものだと実感しています。そうした事柄について十分な予見を行わずに、行政が団体助成金を減らす言い訳として研究を使われてしまったとしたら、それは当該研究者の「責任倫理」のなさを露呈するものだと言わざるをえません。

 Cultural Typhoonの場合、そうした問題に比較的敏感な人が集まっているということもあって、ある程度はクリアできているのかもしれませんが、それでも、今の話って実際に活動している人や、実際に差別されている人とどういう繋がりがあるのか、どういう影響があるのかをきっちり考えてやっているのかすぐには判別しにくい議論だなと思うことも、ままあることです。

 さてさて、ちょっと横道にそれすぎてしまいましたが、カンナビストのブース出展はなかなかの成功でした。なにはともあれスタッフのみなさん、およびCultural Typhoonのスタッフの方々にお礼を申し上げます。